ビーズうさぎのハナちゃんと行く!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

岩手県葛巻町、葛巻第51地割(内安孫)「安孫沢さかさ桂」(町指定)です!!

葛巻第51地割(内安孫)地区は、葛巻町役場の北西約7kmのところ

 

葛巻町役場を北へ出て約60mで左(西)へ、国道281号線です

 

道成に約2.1kmの「一戸・県道15号線⇨」の標識に従って信号を右(北東)へ

 

更に道成りに約3.2km馬淵川の左岸沿いを緩く下って行きます

「⇑一戸27km」の標識のすぐ先に「⇐3kmさかさ桂」の案内板を斜め左(北西)へ

約1.9kmで「さかさ桂1km⇨」の案内板を右(北東)へ、林道に入り砂利道を進みます

道成に進んで大きな左カーブの先の右カーブ外側に大きなカツラが見えて来ます

 

林道脇に🚗車を止めさせて頂きました(カツラの手前に軽トラックが止まっていて南側の牧草地で牧草苅作業が行われていました)

北西側から

説明版です
  葛巻町文化財(天然記念物)

    さかさ桂  昭和50年9月1日指定

     推定樹齢200年余、根まわり6.9m、樹高25m

 この古木には、次のような伝説がある。

 この安孫の里は、その昔、名のある人の落人部落と言われ、この地は「屋敷」という地名で呼ばれ、屋敷跡も残っている。

 何年も続いた飢饉に里の人々はこの地を捨て次々に四散していき、やがてこの屋敷一軒になった。しかし続く飢饉に、この家も食を得る手だてとてなく、他へうつることとなった。

 他へ移るとて、運ぶ財産もなく、ほんのわずかの荷を背に出立となった。ところが家の庭の隅には、日頃飼い慣らされ、唯一の食餌である卵を生んでくれた鶏が無心に遊んでいた。このまま残したらすぐ山狼の餌食になると思い、不憫ながら土に穴を堀り生き埋めにし、その上に主人愛用の桂の杖をさし、標として山を下りた。この杖が逆さにさされたまま、根を張り枝葉を広げてこの大木になったという。

            平成6年2月  葛巻町教育委員会

北北西側から

幹は千本桂と言う様に多くのヒコバエがでていますが、第一世代の幹も残っています

西側の林道から見ました

軽トラックをよけて、北側から、手前に天然記念物標柱が倒れています

太陽が入ってしまったので少し移動して撮影しました

北東側から見上げました

では、次へ行きましょう🚗⤴

 

 

 

 

2025・9・8・11・55

写真29枚

岩手県葛巻町、江刈第12地割(今待)「白山神社稲荷社の三本松」(町指定)です!!

江刈第12地割(今待)地区は、葛巻町役場の南東約4kmのところ

 

葛巻町役場を北へ出て約60mで右(東)へ、国道281号線です

 

道成に約1.7kmで国道281号線は左(北)へ、代わりに北から南下して来た国道340号線となります

 

道成に約1.4kmで「五葉松」を見て、更に南へ約700mで馬淵川を野中橋で左岸側へ

約1.5km道路右側斜面に「一本松」です、案内板を左(北東)へ入ります、カラスが止まっていました

馬淵川へ下って行きます ⇑

 

約300m馬淵川の橋を渡った丁字路を左(北西)へ(⇐三本松の案内板が又ありました)

まもなく右手の山際に赤い鳥居が見えます

ズームアップすると大きなマツの木が見えます

 

約300mの今待集落手前で右(北東)へはいって、丁字路を左(西)へ進むと

白山神社稲荷社前の広い🚗駐車場に入りました

稲荷社の両部鳥居からの参道真ん中に目的の三本松が立っています

 

説明版です、一部表記が消えかけています

  葛巻町文化財(天然記念物)

    三本松  昭和50年9月1日指定

    推定樹齢450年余、根まわり3.3m、樹高17m

 伊弉冉命を祀る白山神社境内にある。この白山神社の創建年代は不明であるが、明和9年6月(1772)の棟札が現存する。

 元々は江刈川に鎮座していたが、明治の初めこの地に奉遷奉祀したものである。

 前期してあるのは一番太い木のものである。三本とも枝垂松のように自然に傘状をなしており、極めて風致に富んでいる。

             平成6年2月  葛巻町教育委員会

南西側から

北側には大きな切り株です、三本松の一本だったのでしょう

東側が境内入口になっている稲荷社です、社殿の両側に狛狐ですね

西側から見上げました

 

では、次へ行きましょう🚗⤴

 

 

 

 

2025・9・8・10・50

写真14枚

岩手県葛巻町、江刈第10地割(寺田)「江刈の一本松」(町指定)です!!

江刈第10地割(寺田)地区は、葛巻町役場の南東約3kmのところ

 

葛巻町役場を北へ出て約60mで右(東)へ、国道281号線です

 

道成に約1.7kmで国道281号線は左(北)へ、代わりに北から南下して来た国道340号線となります

 

道成に約1.4kmで「五葉松」を見て、更に南へ約700mで馬淵川を野中橋で左岸側へ

約1.5km道路右側斜面に目立つマツが見えた来ます、目的の一本松です

国道左手に「一本松⇨・⇐三本松」の案内板です

 

左(北東)へ入って道路脇に🚗車を止めさせて頂きました

北東側から

北側から見上げました

 

根元に標柱と説明版です

標柱には「葛巻町指定天然記念物 名木 一本松」と

説明版には・・・

  葛巻町文化財(天然記念物)

    一本松 昭和50年9月1日指定

      推定樹齢300年余、根まわり3.3m、(目通り3.4m)、樹高12m

 旧江刈小学校跡にあり、学校のシンボルでもあったこの松は、古木のうえ、その姿も風致に富んでいるため国道改修工事の際も残された。

 地上2.5mのところから2本になり、一見枝垂松のように傘状をなしている。

 「一本松」と呼ばれ町民から親しまれ、ここの地名にもなっている。

東側から見ました

 

では、次へ三本松へ行きましょう🚗⤴

 

 

 

 

2025・9・8・10・50

写真9枚

 

岩手県葛巻町、江刈第6地割(岩脇)「江刈の五葉松(キタゴヨウ)」(町指定)です!!

岩手郡葛巻町は、北上高地の北東部に位置し、南西側に盛岡市、西側に岩手町、北側に一戸町、九戸村、北東側に久慈市、東側に岩泉町と接しています。

 町中心部が標高400m、周囲を700ま~1200mの山々に囲まれた山間地、町の中心を流れる馬淵川は、町東部の袖山(標高1209m)の南西斜面に発し、町内を南東から北西へ流れ、延長142kmで青森県八戸市八戸港で太平洋にそそいでいます。

 高速道路・鉄道・スキー場・ゴルフ場・温泉もない「過疎の町」ではありますが、前任の町長の財政改革で、町議会議員・農業委員会や町役場職員の削減、町長報酬も削減してのリストラを断行し、交付税交付金、借入金の削減を行ないました。

 かわって第三セクターである「くずまき高原牧場」や「くずまきワイン」・「ふれあい宿舎グリーンステージ」等が好調な町です。

 前回の「久慈市山形町霜畑八幡宮ケヤキ」から、県道29号線を南へ「遠別川」をさかのぼり、標高820mの「平庭峠」を越え、国道281号線との合流点(標高743m)の平庭高原側の平庭峠を南へ葛巻町に入りますた。

 間も無く国道左手に「くずまきワイン」の観光施設です、一休みさせて頂きました。

 

江刈第6地割(岩脇)地区は、葛巻町役場の南東約3kmのところ

 

葛巻町役場を北へ出て約60mで右(東)へ、国道281号線です

 

道成に約1.7kmで国道281号線は左(北)へ、代わりに北から南下して来た国道340号線となります

約1.3kmで道路左手に大きな「五葉松」の案内板があります(写真は南西側から)

 

国道脇に🚗車を止めさせて頂きました

案内板を東へ入ります、住宅の脇に道が続いているようです

山側に五葉松が見えましたがここまでです

ズームアップして見ました

根元に説明版ですが五葉松の枝で隠れてしまっています

葛巻町指定文化財(天然記念物)

   五葉松(キタゴヨウマツ)昭和57年4月10日指定

     推定樹齢300年余・根回り3.8m・樹高26m

 日本の特有種でブナ帯から亜高山帯にわたって生育する常緑の高木である。針葉樹の美しさから、よく庭園にも植栽される樹種である。

 「北五葉松」は新しい呼び名で、それは主に中部以北に多いからです。この地にこれだけの古木が存在するのは、そばの鳩岡館との関わりがあるのだろうか。

               平成6年2月    葛巻町教育委員会

 *マツ科マツ属のキタゴヨウはゴヨウマツの変種です、日本固有種で北海道十勝以西から本州中部以北に分布しています。

 鳩岡地区は、岩脇地区の直ぐ北側の比高50mほどの丘(標高464m)の北側に当たります。

 

更に大きくして見ました

 

では、次へ行きましょう🚗⤴

 

 

2025・9・8・10・35

写真11枚

 

 

岩手県久慈市、山形町霜畑第15地割「霜畑八幡宮のケヤキ(群)」(県指定)です!!

山形町霜畑第15地割地区は、久慈市役所の西南西約18km、久慈市役所山形総合支所の南東約4kmのところです

(かつての九戸郡山形村は、平成18年(2006)3月6日に、旧・久慈市と合併して久慈市山形町となり消滅しました。)

 

久慈市役所山形総合支所南側の道路を東へ坂道を上って行き一山越えます

 

道成に約2kmの一時停止で斜め右(南南西)へ、遠別川の谷です

 

約3kmで右手へ入る道路に鳥居が見えました

左手の霜畑営農研修館入口脇に🚗車を止めさせて頂きました

南東向きに鳥居が建っています

八幡神社社號標です、碑面には、明治37・8年日露戦役記念・陸軍歩兵一等卒田野亀太郎・設立者 田野兵次郎とあります

昭和55年3月4日 岩手県指定「県指定天然記念物 霜畑のケヤキ群」の標柱です

参道を進みます ⇑

境内入口の鳥居です

社殿です

社殿の東側には神楽殿の様です

 

目的のケヤキの一本は社殿の西側です

説明版です

  岩手県指定天然記念物  霜畑のケヤキ

    指定年月日 昭和55年3月4日

 県下にはケヤキの大木が5本あるが、そのうち霜畑のケヤキは樹高第一位であり、根元径も第一位、第三位、第五位である。

 また樹齢では、第一位、第二位、第三位という巨木である。

 しかも他の二本は、孤立木であるのに対し、霜畑のケヤキは三本群生しており県下最大のケヤキ群として貴重であると認められ、岩手県指定を受けたものである。

 形状     A号木    B号木    C号木

 根元径    3.36m  4.27m  3.76m

 目通径    2.07m  2.18m  2.71m

 樹高    37.00m 36.00m 33.00m

 樹齢(年生位)  750年   940年   830年

       昭和56年12月1日  山形村教育委員会

 *境内社殿前にあった、C号木は無くなってしまっています、かつては4本の巨木があったようです、C号木が倒れた記事はネットで調べても分かりませんでした

 岩手県内のケヤキの大木としては、二戸郡一戸町の八坂神社のケヤキ(目通り幹囲7.7m)、宮古市茂市熊野神社ケヤキ(目通り幹囲6.6m、このブログ2024年11月17日紹介)、久慈市山根町下戸鎖のケヤキ(目通り幹囲6.3m・このブログ2025年9月19日に紹介)等が残っていますが、岩手県ケヤキの少ない地域でもあるようです。

説明石碑です

   欅のつぶやき

 私の名は、霜畑八幡宮の大欅です。平安末期に生まれ、年齢800歳以上です。

 私の少年期は鎌倉時代、青年期は室町時代、江戸時代300年は壮年期でした。そして明治の文明開化から、自由・民主の大正・昭和にかけて、老年期を迎えました。

 いま、私の背丈は、37m、胴回り8.7mの老大木になりましたが、この間、栄枯盛衰、治乱興亡の幾星霜を見てきました。

 私たちは、村人に愛され、神に守られて生き延びてきましたが、先年(昭和47年)弟分の大欅が突然倒れて、この世を去りました、いま、兄弟の大欅が3本あるのが、せめてもの慰めです。

 このたび私たちは「天然記念物」として、山形村文化財指定を受け、栄誉に輝きました。長生きしてよかったと喜んでいます。私たちは体に気をつけて、更に長寿を重ねたいと願っています、お守りください。

          昭和52年3月24日 碑文 中野龍雄

*かつてあった4本目が倒れたのは昭和47年でした。

社殿西側のB号木です

幹に祠が供えられています

西側から

北側から

社殿裏側のA号木です、

西側から

北側から

北東側から

南東側から見上げました

境内南東側の枝垂桜です

平成御大典奉祝記念植樹の標柱です

西側から見ました、まだまだ小ぶりですが、春には美しい花を咲かせてくれることでしょう

 

では、次へ行きましょう🚗⤴

 

 

 

 

2025・9・8・09・40

写真46枚

 

岩手県久慈市、大川目町第22地割「久慈城跡」(県史跡)です!!

大川目町第22地割地区は、久慈市役所の西約6kmのところ、慈光寺駐車場入り口の東側に久慈城跡があります

 

久慈市役所北側の道路を北東へ進み、約200mの信号を左(北)へ、久慈川を川崎大橋で渡ります

 

約800mの信号を左(西)へ、約900mの信号から道路が細くなって住宅にの中へ

 

約600mの一時停止で斜め右(西北西)へ、約400mの交差点を左(西)へ

 

道成に約2.8kmで右手の鳥居前で斜め左(南西)へ

 

約1.4kmの一時停止の丁字路を右(北西)へ

 

慈光寺の駐車場への入り口が久慈城跡入口となっています

説明版です

  岩手県史跡  久慈城跡  令和4年4月8日指定

 久慈城は別名八日館、通称新町館と呼ばれ、久慈川沿いに開けた平野を一望する標高約80mの丘陵を利用して築いた山城で、現在も主郭やⅡノ郭・濠跡・馬場跡などが良好な状態で残っており、中世山城の条件を備えた極めて重要な史跡です。

 久慈城は、南部氏の一族であり久慈地方の領主であった久慈氏の居城で、文明年間(1469~87)に久慈備前守信実が居城したと推定されています。

 天正19年(1591)、久慈備前守直治は、九戸城主九戸政実と三戸城主南部信直が戦った「三戸一揆」の際に、九戸方の武将として参戦しました。

 しかし、豊臣秀吉の命により信直を援軍した豊臣秀次を総大将とする大軍と戦い、九戸城に籠城し善戦しましたが、豊臣方の謀略によりついに九戸城方は降伏開城しました。

 久慈豊前守直治・政則父子は九戸政実と九戸方の武将らとともに捕らわれの身となり、栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)に送られて処刑されました。

 「九戸一揆」の際に久慈城は戦場となりませんでしたが、城主である久慈氏の直系が滅亡し、豊臣秀吉の城破却命令により取り壊され、天正20年(1592)6月の破却書立には「久慈山城破却」と記されています。

     久慈ロータリークラブ製作(創立60周年事業) 令和4年10月1日設置

     協力機関/久慈城跡保存協議会・構成団体 大川目町まちづくり協議会

                         九戸歴史民俗の会

                         (一社)久慈市観光物産協会

                         久慈城の会

                         久慈市教育委員会

東側に残る溝は濠跡です

左手(西側)水路も濠跡ですね

気比神社です城門が有ったのかもしれません

城跡の図面です

城の裾には馬場が設けられていたようです

もう一枚の説明版が慈光寺杉並木入口との間にありました、内容は少し詳しく記されています。

  岩手県指定史跡 久慈城跡 令和4年4月8日指定

久慈城は別名八日館、通称新町館と呼ばれ、久慈川沿いに開けた平野を一望する標高約80m、平地との比高約40mの男山(兵法で、見晴らしがきいて、敵が攻め込むるのに不便な山)を利用して構築した平山城で、城跡は現在も主郭部や三段構成の帯郭・濠跡・馬場跡などが良好な状態で残っており、中世山城の条件を備えた重要な史跡です。

 城跡の周辺には「堀屋敷」等の地名が残っており、また、濠跡を隔てて西側には、久慈氏の保護を受けた遍照山海徳院慈光寺があり、久慈氏の後裔である摂待久慈家の墓碑や念佛碑が現存し、これらは久慈地方の歴史を解明する上で貴重な文化遺産であります。

 久慈城の築城年代は明らかではありませんが、諸資料から久慈氏12代と伝えられる久慈備前守信実の頃からの居城と考えられています。久慈氏は、19代3百数十年にわたって久慈地方を治めたと伝えられていますが、12代信実以前については諸説があり、詳細は不明です。

 天正19年(1591)、19代久慈備前守直治とその娘婿19代久慈中務政則は、政則の兄である九戸城主九戸政実と三戸城主南部信直との騒乱の際、九戸方の武将として参戦、九戸城(現在の二戸市福岡)に籠城し、信直方の援護に派遣された、豊臣秀次を総大将とする、十数倍の大軍の総攻撃を受けました。3日間にわたる激しい攻防戦で、包囲軍は兵の損害が大きく、食糧の欠乏と軍紀のびん乱、寒気の到来、悪疫のまん延などに苦しみ、作戦を変えた浅野長政らの謀略により、一門の郎徒の身命を助けることを条件に降伏を勧め、九戸方もそれを受け入れて降伏開城しました。しかし、開城と共に城中の士卒は皆殺しになり、政実や久慈父子らは捕らわれて秀次の陣屋に送られ、栗原郡三迫岩ヶ崎(現在の宮城県栗原郡栗駒町)で処刑されました。

 九戸争乱の際に、久慈城周辺は戦場となりませんでしたが、城主である久慈氏の嫡系が滅亡し、城主を失った久慈城は天正20年(1592)6月、豊臣秀吉の諸城破却命令により、取り壊されました。

            平成元年3月31日  久慈市教育委員会

 

では、次へ行きましょう🚗⤴

 

 

 

2025・9・8・08・50

写真8枚

   

岩手県久慈市、大川目町第22地割「慈光寺の杉並木と傘楓」(市指定)です!!

大川目町第22地割地区は、久慈市役所の西約6kmのところ

 

久慈市役所北側の道路を北東へ進み、約200mの信号を左(北)へ、久慈川を川崎大橋で渡ります

 

約800mの信号を左(西)へ、約900mの信号から道路が細くなって住宅にの中へ

 

約600mの一時停止で斜め右(西北西)へ、約400mの交差点(天満天神社前)を左(西)へ

 

道成に約2.8kmで右手に羽黒神社の一ノ鳥居です、鳥居前で斜め左(南西)へ

 

約1.4kmの一時停止の丁字路を右(北西)へ

 

約100mを左(南西)へ進むと杉並木の慈光寺入口ですが、駐車場は庫裡前にありますので直進して坂道を上がります

 

参道杉並木の東側駐車場に🚗車を止めさせて頂きました

参道杉並木入口です

遍照山慈光寺の寺号標です

参道杉並木へ入ります

左手に説明版です

  久慈市指定天然記念物 

      慈光寺の杉並木

 慈光寺の杉並木は、参道入口から山門にかけて直径2mを超す杉の大木がおよそ300mもの長さにおよび、東北地方でも屈指の杉並木であり、貴重な文化財です。

 並木は参道の両側の74本の杉の木から成り、並木の保存状態も良好で、最も太い杉で胸高周4.25mを測ります。現在の並木の間にある切り株は戦時中に軍用船に使用するためや、昭和30年代に寺の屋根の葺き替えに使用するために伐採されたものです。

 慈光寺は明治の初めに廃仏毀釈のため廃寺となり、当時800戸を擁した檀徒を失いましたが、明治13年(1880)に檀信徒有志180名の手により再興され、今日に至っています。

 この並木は、天保年間(1830~1843)と明治の慈光寺再興後の二度にわたり植樹されたものと推定されています。

 【所在地】久慈市大川目町 慈光寺

 【指定】  平成9年9月1日      久慈市教育委員会

直ぐ右手に太い杉があります

西側から、実測してみると4.9mを測りました

数本奥側の杉です

参道奥側から、こちらも実測をしてみると4.7mを測りました

参道を進みます ⇑

山門手前この右側に駐車場です、左手には墓地への入り口があります

参道石段を上ります ⇑

山門です

右手には手水舎です

左手には観音堂です

境内に入ると東側に鐘楼です

正面に本堂です

説明版です

  遍照山 海徳院 慈光寺(神奈川県藤沢市 時宗総本山遊行寺直末)

 当山は、過去数度の火災や天正末年に起きた「九戸政実ノ乱」の余波、あるいは明治初期の廃仏毀釈等により縁起書が残っておらず、由緒に不明な点が多い。

 仁安3年(1168)天台宗として開山されてが、永仁4年(1296)時宗2代他阿真教上人の勧進によって改宗したといわれている。

 古くは、甲州にあったが、三戸南部氏の分流久慈氏によってこの地に移されたという、その時期は不明である。

 久慈氏は、天正19年(1591)に勃発した「九戸政実ノ乱」において滅亡したが、久慈氏の菩提寺であった当寺も一時期当地を追われている。

 寛文4年(1664)八戸藩が創設されたことに伴い、この地を知行した久慈氏の支族摂待氏の保護を受けてこの地に再興されたという、以後江戸末期まで南九戸郡一帯およそ800戸の香華所として隆盛を極めていた。

 明治維新後、廃仏毀釈の余波を受け、約10年間無住職のままであったが明治13年(1880)大川目村および山形村戸呂町の有志180人によって旧に復され現在に至っている。

  本尊 阿弥陀如来 脇侍 観音勢至両菩薩

 本堂前の「傘楓」は樹齢480年と推定される。また参道の杉並木は樹齢200年と推定され、ともに久慈市から天然記念物として指定されている。

                     平成15年8月建之

参道右手に天然記念物の傘楓です

西側から

歌碑です

北側から、秋も深まると葉も色付くことでしょう

東側から

南側から見ました

 

すぐ東側の久慈城の説明版を見て行きましょう⤴

 

 

 

2025・9・8・08・45

写真32枚